『ヒメアノ〜ル』2022.3.1 Netflix
映画『ヒメアノ〜ル』面白かったけど、観ててドッと疲れた。
フィクションとして楽しむには、あまりにも現実と地続きすぎて。
「この状況ならわたしはどうやって生き残るか」「こんな状況にならないためにどんな防衛策が立てられるか」そんなことばかりが頭に浮かんで、観終わった時にはへとへとだった。
今までの人生で感じたことのある恐怖が記憶の底から引き摺り出されて、"映画"として楽しむところまで戻れなかった。
実際、話したこともない男に一方的に付き纏われたこともあるし、街中で暴れる男に遭遇して周りの人間が青ざめて逃げるところに居合わせたこともある。
そういった経験が、自分が「標的」になりやすい属性だということを思い知らせてくる。不条理だけど、対策を立てるしかない。いつも警戒している分作品として「考えろ!」って出されるとただでさえギリギリなキャパから溢れてもうとにかく疲れた。
森田が先天的にヤバいやつだったのが、救いに感じた。いじめられたせいでみたいな"IF"が考えられることが原因じゃなくて、先天性っていう、どうしようもないことが原因なのはむしろ諦めがつくというか……。
この感覚は、自分が注意欠陥多動障害の診断を受けた時の気持ちにかなり近い。
もしいじめ被害が原因の「河島殺し」がなければシリアルキラーにならなかったのではみたいな感想を見たけど、きっと別の形でたくさんの被害者を出してたんじゃないだろうか。
それが強姦なのか殺人なのかはわからないけど。
森田の苦しみ(先天的にどこかオカシイ自分への苦悩)もわかるけど、殺人も強姦も絶対に許されないし軽蔑するし吐き気がする。
サイコキラーという"災害"として認識するのが一番しっくりくるな。
あとやっぱ殺人って「勢い」「段取りの良さ」「運」のどれかが突出してないと出来ないなと思った。わたしにはむりだ。
「なんであんなクズのためにヒトの命が奪われないといけないんだ!!」(という憤怒)よりも、「そういう人もいる。だからできるだけ被害を最小限にする方法を考えなきゃ」という考えが頭に浮かんだ。
これは災害とか、ゴジラとかそういうものに対する認識に近い。
明らかに自分と価値観の違うヤバいやつがいるっていう事実を、こうもすんなり受け入れられるのは、自分も先天的な脳の問題を抱えてるからかも。
逆に、「あの時ああしていれば」みたいな余計な反省をしなくていいから潔いまである。
自分が普通じゃないこと、悩まなくてよくない?絞殺に性的興奮を覚えるのは仕方ないじゃん。ただそれに対して自分に被害が及ばないように最大限の防衛をするし、社会も最大公約数としての倫理を以て森田を抑制する。
否定もしないが、受け入れる筋合いもない。
これは善悪の話じゃない。
ああ、自分は生まれた時にはずれくじを引いてこの社会で「普通」をやるのは無理なんだなあって、これは納得に繋がる気づきでは?
羨ましい、ずるい、悔しいみたいな執着を抱え続けるほどこの社会を肯定する気持ちがわたしにはない。
でもこの「災害」すら、女ってだけで被害に遭う確率が上がる理不尽に正直げんなりした。わたしがこの映画に感じた不快はきっとここだと思う。
ディストラクションベイビーズの商店街のシーンでも同じことを感じていたし。