ダルカラ『岸田國士戦争劇集』赤組千秋楽
ダルカラ『岸田國士戦争劇集』赤組の千秋楽を観た。
戦争と人の生き死にを「物語」に落とし込むこと、
それを空間ごと彩って声に出して語ることの恐ろしさをずっと感じていた。
谷さんはよっぽど観客のことを信頼してるんだな。
これが賛美にならないことを分かって踏み込んで描いてることに驚いた。
様々な時代の人間が描かれながら、どの時間も焼けた梁と柱に囲まれていること。
たどり着く場所のどうしようもなさ。
その終着点の先にいるのが客席の自分達だと思い知らされる空間だった。
この言い方が正しいかは分からないけど、
わたしはずっと馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。
戦争なんかに命を賭すことの馬鹿馬鹿しさ。
ただそこに、いま生きる自分の置かれた状況が重なってしまうことが
ただただ恐ろしかった。
憎い、戦争が憎い。戦争の憎さを知りながら目を逸らす男も憎い、そんな男の身の一部として生きてしまった女も憎い。戦争が憎い。
でも岸田國士をほんの少しずるいと思ってしまった。
風見鶏な男と己の意志に従ってものを言う学ある女の対比にみせかけて、
本音を女の器に言わせてるだけでは?と。
戦時下の男のロールモデルは勿論徴兵という害・犠牲を払ってたものの
「益」もあっただろう。
男としてその「益」を受けながら、
己の意志を切り離して女をスピーカーにするグロさ。
画一的な男と、男の本音を代わりに言わされた女、
じゃあ女の本音はどこにやればいいんだろう。