幾星霜

わたしのため、書き置き

信じる。相手のことも、自分のことも。

加藤諦三さんがご自身の著書『自信』(2009,三笠書房)に

「自分が尊敬する人のために何かをすることは、喜びである。」と記していた。

一昨日はまさにこの一節のような一日だった。

 

『自信』にはタイトル通り自信を持つために必要なことが記されている。

加藤先生曰く、自信とは「自分を偽らないこと」らしい。

 

自分を偽らないというのは

幼少期から何者かになることを強いられてきた私にとって

とても大変なことだ。心の中の葛藤はまさに戦争。

この戦いに己の力で勝たねばならない、と感じていた。

 

しかし、戦うための術は自分の努力だけではなかった。

 

昨日、尊敬する人物から仕事を頼まれた。

わたしは即座に浮かんだ不安や緊張、失敗への恐れやパッシヴな野心を振り払い

自分を偽らずに真っ直ぐ取り組んだ。

 

そしてそれが私の評価になった。

 

こんなに嬉しいことはない。

自分を偽らずに取り組んだことを誇りに思うし、

そこで受けた評価は真にわたしのものだ。

 

本当に、震えるほどうれしかった。

 

ここで私が自分を偽らなかったのは、

自ら勇気を振り絞ったから、そして相手のことを信じたからだろう。

 

私の小手先の虚栄を彼はきっと見抜く。

ならば落ち着いて私自身として向き合うだけだ。そう思った。

 

偽りを見抜く目を持つ人間の元に身を置くことが

こんなにも自分を潔くさせるとは知らなかった。

 

そして評価されるにまで至った努力の積み重ねをしてきた自分を

とても誇りに思った。

今ここに立っていることこそ過去の人生への肯定だ。

 

 

「恵まれている、身に余る、不遜、謙遜。」

今までずっとこれらの呪いに苦しめられてきた。

 

以前の私は、自分を偽ることに必死だった。

会社の中で上がっていく評価は”恵まれているから”だと思っていた。

 

そして己の自信のなさとのギャップを埋めるため

自分を偽って大きく見せようとしていた。

その度不安と焦りに襲われまた偽る、繰り返し。

評価を下す人々に腹見せ行為をしながら縋っていた。

 

評価されねばならない・評価されて当然という強迫観念があった。

これは一見ナルシズムにも見えるが、

その本質は刷り込みと恐怖でしかない。

 

偽らずに生きるための勇気や努力、

この人の目はごまかせないと思う人の元という環境、

少しずつでも前進している。

恐怖の連鎖には戻らない。戦って生きる。

ミュージカル『衛生』〜リズム&バキューム〜感想

ミュージカル『衛生』〜リズム&バキューム〜

の感想メモを発掘したので

1年越しの掲載。

2021年7月11日赤坂ACTシアターにて。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

一幕終わり。幕間です。
これは、、、わたし、あんまり好きじゃないな!?!?

アレルギー症状が出るタイプの""ミュージカル""だわ。
『いやおうなしに』は"歌謡ファンク喜劇"だったな。ミュージカルじゃなかった…。

 

キャラクターそれぞれに長めのソロ曲があてがわれてて、それは別にいいんだけど一曲一曲が冗長でつまんない…。自己紹介ソングばっかりが連続は、いわゆる独白ばかりが続くようなもんだから『衛生』世界の機微がインストールされてない状況でそればっかり見さされても…。なんだか公式HPのキャラクター紹介欄を一気に読んでるような印象だった。

 

「ストーリーを進める」という意思だけが前に出てるように感じる。

 

『諸星衛生』がパチンコ屋を建てたことを公にするシーンとか、それは紆余曲折あってこその盛り上がりシーンな訳でそこをすっ飛ばすなんて。
諸星親子が進めて来た泥臭く黒い仕事について死体バラして豚の餌にするシーンを作って、「諸星親子の仕事は全体的にこんなイメージですよ」とだけ先に見せるのは横着では????

 

こんな風に独白とストーリーをギュンギュンに展開させる曲ばかり続くから、キャラクターの深みだったりキャラクター同士の関係性の中から感じ取れるはずの背景が全く見えない。

 

あと、暴力の描き方が軽すぎて、ヤバい事件を揉み消しながら暗躍してるって重みが薄くなってる。
死体が出るのって重大事件なわけで、そんな重大事件を議員パワーで揉み消してるっていう諸星衛生の手強さをもっともっと描いて欲しい。
何もかも上滑りしてる。

 

セットも、回転する機構は好きだけど、地味だ……

 

諸星衛生の隣の建物の壁、マッピングのためかもしれないけどまっさらなの寂しすぎん??六角さんの選挙ポスターとか貼っといて欲しい。あと小便禁止⛩の張り紙とか。
下手の街並みセットも、なんか小綺麗で違和感あった。

せっかく2階建てやのに上手の1階が特に活用されてなくて階段とか鉄パイプ的な意匠の意味もよく分からんかった。

 

ヒロインも重い設定、重い背景っていう記号だけあてがわれてるようにしか見えへんかったな〜。

 

ラストシーン、再起で盛り上がってる諸星親子にショウコが棒片手にバトル挑みに行ったのもまじで意味わからん。父親と祖父がステゴロ強いの近くで見てたはずでは?

 

ノンスタ石田さんにタイミング見誤るなって言ってたショウコがそんな勝ち目のない戦いを挑むか???教祖できるくらいなんやから一旦引いて立て直すくらいの脳はあるはずやろ。
なにワンパンでのされてんねん!!17年間の恨みはらさでおくべきかちゃうんか!!!

 

諸星大が「また一からやり直そう!上り詰める達成感が最高だろ!」的なことを言っててめちゃくちゃ同意したと同時に「その上り詰める部分をストーリーで見せてくれや!!!!」って思った。
全部が全部事後報告みたい、諸星親子の軌跡をなぞってはいるけど歴史の教科書みたいな描かれ方やった。

 

怒る事件全てが観客とリアルタイムで共有されてなくて、置いてけぼり。

 

比べるのは良くないと思うけど、『いやおうなしに』では、甲子園に行けなかった"過去の事件"があって、その背景を元に"現在の事件"を体験する話やったからめちゃくちゃ楽しかった。

 

あと、人間性って人生の経験の中で固まっていくもんやろ?なんかどのキャラクターも、経験から性格が出来たんじゃなくて先に「設定」が与えられて物語に参加したみたいに見えた。六角さんの戦争帰り設定とか、本来ならそれだけで一本書けるくらいの話やのに。。


尾上右近さんはさすがの演技やった。見栄(?)いっぱいしてくれて、いいもん見たな〜と思った。

 

フライヤーのあらすじにノンスタ石田さんのキャラ説明で「モテない恨みを募らせてた」って書いてあるんまじでびっくりしてんけど。"モテない"恨みじゃないやろ!?!?愛する人を奪われた恨みでは!?!?
脚本がどこまで出来てた状態で刷られたんか分からんけど、さすがに表現に齟齬がありすぎる。

 

なにより一番期待外れやったのは楽曲。
一曲も頭に残ってない。
POPとファンクの中途半端な感じ、一曲が一曲として独立してる感じがせんかった。
例えるなら、フリースタイルラップを載せる用のトラックみたいな?歌詞を立たせるための伴奏みたいなかんじ。
ミュージカルは歌詞と同じくらい曲が大切やと思うのに、なんかがっかり。

 

『いやおうなしに』が大大大好きで、こんなにもずっと楽しみにしてたのにな…。
福原さんの秘密の花園やって大好きやし、なんで衛生がこんな刺さらんかったんか分からん。残念やなの気持ち。

 

あとマッピングで軽率に札をふらすな!!!!
札降らしなんて表現おなかいっぱい!!!

 

あと諸星良夫と六角さんが手を組み始めたきっかけとか、関係性を気づいた時間とかそういうところの言及も全然なくてつまらんかった。
サウナで2人でおるから、実は肉体関係があったとかそういう感じかと思ったけど違ったぽいし。

 

諸星良夫が色んな業種の商売の仕組みを意欲的に勉強してるの、めちゃくちゃ大切な要素やと思うのにそういう金儲けに対する勤勉な性格も全然ストーリー展開に噛んでこんくてもどかしかった。私は頭いいですから!っていうともさかりえとの対決とか出来たんちゃうん???

偽る、偽らない

今、私は人生の岐路に立っている。

夢見ていた世界への切符を思わぬ形で手にした。

 

ただ、どこまで行けるかは私の実力にかかっている。

 

ことが起こってから1週間、

思いがけない幸運、願ってもないチャンスに

奮い立つと同時になぜか心が消耗していた。

 

これは

「自分を偽らねばならない、現実より大きく見せねばならない」

という自己暗示的プレッシャーと

「挑戦を前に自信なさげに振る舞わねばならない」

という歪んだ規範の刷り込みが原因だろう。

 

自信なさげに振る舞うのは所謂”腹見せ行為”だ。

その振る舞いがマインドとして心にも作用している。

本当に自信のない人間として、心が消耗しているのだ。

 

本来、根拠のない刷り込みに負ける必要などない。

 

わたしはわたしにしかない魅力を持った人間だ。

少ないが友人もいるし、

尊敬できる人との出会いや冒険のような日々を送ったこともある。

 

心に絡みつく邪念の正体を暴いて、本来の心の聲に耳を傾けたい。

 

 

今の私は過去の私が積み上げて来たものの上に立っている。

チャンスが舞い込んだこと自体が、

私の来た道を肯定している。

 

チャンスを掴みきる握力が自分に足りているか、

それを測るのは私ではない。

私に出来ることを直向きにこなせば、どんな形であれ人生は進む。

 

どんと構えて、正しい鏡に映った自分を見つめて生きよう。

『室温〜夜の音楽〜』兵庫公演初日・千秋楽

『室温〜夜の音楽〜』兵庫公演初日と千秋楽を観た。

 

1幕「むくみ」そんな使い方するの!?!?

イントロ聴いた瞬間超びっくりした。

在日ファンクの既存曲を使うのは予想外。

「根に持ってます」も、「或いは」も、人気曲大サービスという感じだった。

 

ただ、キーワードだけが物語に関連してて詞が舞台から浮いていたと思う。

この違和感が演出されたものならよかったけど

登場人物が大っぴらに歌うスタイルでない今作では

シームレスに歌と芝居が行き来する方が良かったように感じる。

 

歌詞から物語を膨らませた『いやおうなしに』と違って、

本作には有りものを合わせたちぐはぐだった。

 

ヨタロウさんの歌聴くのはゴーゴーボーイズ以来か?やっぱり良い。

あーやが歌うのを今か今かと待ってたら1幕終わってあれ?になった。

我が家坪倉さん好演だなぁ。ハマケンさんの歌もっとあってもいいくらいだ。

 

昨年の『衛生』は全員歌ったから歌うと思ってた。

あーやの歌もっと聞きたかったな。

 

セットと映像の使い方はよかったけど、

最近の芝居(特に物語が並行して進む群像劇)に多い

"各々の最後を映像で映し出す手法"が取られててがっかりした。

なぜ肉体で示さないのか。役者がそこにいるなら役者が演じてくれよ。

 

それに、音楽劇なのに音楽にのせない独白が多くて大変白けた。

長い独白を台詞でやるな。
のたうちまわって高笑いすんのやめろ。
安易に狂気を表現するな。

なんのためのバンドセットだ。2分あれば1曲歌えるだろ。

 

戯曲についても20年前の作品だってのは分かってはいるんだけど、

それでも「男が描いた女の死ぬ話じゃん……」と思った。

 

次第に明らかになる人間の罪……みたいな触れ込みだったのに

あまりにも非対象で。

 

男の罪はぜんぶ加害だったのに女の罪は不貞の妊娠だったのハァ〜〜〜????って感じ。ひとりで妊娠できねーだろ。

強姦、リンチ、窃盗と妊娠を並べて「人間の業だね❕」って馬鹿げてる。

 

きおり(さおり)と間宮の抱擁で終わるのが一番腑に落ちなかった。

中学生?高校生?の恋人関係に美化するような価値や趣きがあるとは思えない。

 

『いやおうなしに』の面影を追いかけて芝居を選ぶのもうやめる。

あれを超える作品はないし、同じものだってない。


初演は円形劇場だったのか。2階建てのセットは河原リーダー十八番の形でカッコよかったと思う。電柱も崖立った網目状のコンクリの壁も、遠くに見える住宅街の屋根もよかった。

どこにも行けない田舎の景色は鹿の彼女の起源を思い出した。

ダルカラ『岸田國士戦争劇集』赤組千秋楽

ダルカラ『岸田國士戦争劇集』赤組の千秋楽を観た。


戦争と人の生き死にを「物語」に落とし込むこと、

それを空間ごと彩って声に出して語ることの恐ろしさをずっと感じていた。

 

谷さんはよっぽど観客のことを信頼してるんだな。
これが賛美にならないことを分かって踏み込んで描いてることに驚いた。

 

様々な時代の人間が描かれながら、どの時間も焼けた梁と柱に囲まれていること。

たどり着く場所のどうしようもなさ。

その終着点の先にいるのが客席の自分達だと思い知らされる空間だった。

 

この言い方が正しいかは分からないけど、

わたしはずっと馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。

戦争なんかに命を賭すことの馬鹿馬鹿しさ。

 

ただそこに、いま生きる自分の置かれた状況が重なってしまうことが

ただただ恐ろしかった。

 

憎い、戦争が憎い。戦争の憎さを知りながら目を逸らす男も憎い、そんな男の身の一部として生きてしまった女も憎い。戦争が憎い。

 

でも岸田國士をほんの少しずるいと思ってしまった。
風見鶏な男と己の意志に従ってものを言う学ある女の対比にみせかけて、

本音を女の器に言わせてるだけでは?と。

戦時下の男のロールモデルは勿論徴兵という害・犠牲を払ってたものの

「益」もあっただろう。

 

男としてその「益」を受けながら、

己の意志を切り離して女をスピーカーにするグロさ。

画一的な男と、男の本音を代わりに言わされた女、

じゃあ女の本音はどこにやればいいんだろう。

休職延長、深海から上る泡のような感情

休職の延長が決まった。

 

復帰する気でいたから、ショックだった。

情けなくて泣いてしまった。

 

休むという選択自体。

頭では最善だと分かっていても、心は許せていなかったんだと思う。

 

「役に立たなきゃ」の刷り込み、さみしい、使命が欲しい、

色んな感情と事情が渦を巻いてわたしを引き摺り込む。

 

当分は「生活」をしながら生きていくことになると思う。

 

ただ、復帰が難しいと言われた時、

悲しみが心に現れたのが、とても不思議だった。

 

これについて1日考えて、答えが出た。

自分のことを怠け者だと考えていたからだ。

 

「自分は怠け者だ。

 そして自分のような怠け者は”休める=嬉しい”と考えていなければおかしい」

と分裂した自分が自分を罵っていた。

 

だから、休んでいることにずっと罪悪感を覚えていたし、

復職が叶わず悲しむ自分にも驚いたんだと思う。

 

わたしはわたしが思う以上に勤勉かつ真面目だ。

いくら自己認識が歪もうと、心は正しく感じ取れていた。

 

自覚してなかった感情が急に表に出たことに、

混乱したけど同じくらい感動した。

 

自分自身の内面でも知覚できてないことがあるんだ。

これは希望。

 

やっぱり人と接する中でこそ自分に気づくことが出来るんだと思う。

 

自分自身のことで知らないことがまだ沢山ある。

 

自分の輪郭を触るのと同様に、

泡みたいに浮かんできた感情の、弾ける時のきらめきを見つめる。

ピーターラビットのスリッパ

ピーターラビットがスリッパを履いていることに気づいたのは

展覧会のチラシを手に取った時だった。

 

うさぎと暮らすようになってから、

うさ飼いの人が描く絵が分かるようになった。

 

もし私の小さなうさぎにもスリッパを履かせることができるなら

きっとそうしていたと思う。

ソアホックが心配だし。

 

大切な小さないのちに、

服を着せて、スリッパを履かせて、身を守るために大切な言いつけを伝えるはずだ。

 

わたしは私の小さなうさぎに日々甘えては癒されているけど、

飼い主として毎日気を張って、命を守る決意を毎秒更新しながら生きている。

 

もちろん疲れることもある。

自分以外を守りながら生きるのは、

対象が大切であればあるほどくるしい。

 

そのくるしみを受け入れて、愛すべき日々を過ごしている。